昭和42年8月18日 朝の御理解


  昨日或方がお参りをしてきてお届を致しまして、是非そこの社長から期待される。どうでもあんたに頼むと信頼を受けておる訳です。これまで頼られ、これまで言われるのだからその会社の為に私はいよいよ本気で、云うならばそこの会社の浮沈に、繁盛するか繁盛しないかと云う鍵を自分が握っておる様なものだから、本気でその会社の為に働いて上げたいとそういう様なことを申します。
 それでそういう心がけと云うことは、普通で言えば立派なことですよね。頼られる、すがられておる。もうあんたがおってくれなければ私の働きがそこの会社の繁盛するか繁盛しないかの鍵を握っておる。社長がそう言うて頼むから本気であそこん為に働いてあげようというのである。で、私申しました。ま、○○さん、最後の働きがやろうということがいかんばい。。さあその会社が繁盛するねえ、私が働いてやったからこの会社がこういう風に立派になったんだと、それに対して待遇が悪かったり、ね、又それをそれと思わんような仕打ちを受けたりすると、これだけのことをしてやったのに、これだけのことをしてやったのに、その事も忘れてと言うて自分が腹を立てなければいけんのです、自分が自分で苦しまなければならない。
 この人の信心をさせて貰やあどこまでもさせて頂くのであり、させて頂くのじゃと私は分からせて頂くことでございます。してあげますと言うのと、させて頂くちゅうのは大変な違いがある。天と地程の違いなのだ。誰に、神様にさせて頂くのだ、おかげを頂くのは、させて頂くだけなの。その代償としてです、どうして貰わなきゃならん、こう思うて貰わなきゃならんと言うたようなことはさらさら無い。只なすことだけはさせて頂いたんだと言うこと。同時にです、そういうような成すことだけは成したんたというような、力一杯受けさせて頂いたんだという思いであってもです、お道の信心をさせて頂きますとです、そうではないです。それではまだ本当の真じゃあない。私がこの店の為にこんだけいっぱいのことをしてやったのに、してあげたのにということ、それではない、させて頂いたとあっても、まだそりゃあ信心じゃあない、真じゃあないということになるのです。
 御神前に出らせてせて頂きましたら、至れり尽くせりという言葉を頂くのです。これは、あのお茶なんかに呼ばれますとね、もうずっと至れり尽くせりのことだった。これ以上の事は無かろうと、至れり尽くせりのことだったとよく申しますが、今神様は、大坪総一郎お前の信心は至れり尽くせりじゃと仰ったと思われん。ね、もう至れりと思うた時にはおしまいだと私は感じたのです。自分が至るところまで至ったんだという時にはもうその人の信心はおしまいだと、私がそういう思いあがりがあるとするならば、もう私の信心はおしまい。後はぶらさがる。もうこれ以上残すことはない。尽くしたんだ。尽くしたんだと言うものが私の心にあるとするならば、それは大変な慢心だと私は思わせて貰っている。
 普通云うなら、至れり尽くせりと云う一つ一つ至れりと云うこと、尽くせりと云うこと。
教祖の神様が四十二才の御大患の時、もう湯水も喉を通らないというときに、俗信仰の時分ですよね。いよいよ命も危なかろうというて、親戚の者が集まったり近所の者が集まりましてね、当時今迄拝まれておられたところの石槌の神様をみんなが一生懸命祈念をしながら、川手文次郎の全快を祈った。特に新家の治郎と云う方は非常に信心の手厚い方であった。その方が先達になって一生懸命祈った。他の者は後をつけて拝んだ。急に神掛かりになられましてですね、この家主人に豹尾金神に無礼があるということであった。どうでしょうね、今でもそうですけれども、金神様とかなんとか云うようにそれこそ、知っておるか、知らずに向かっても、目を取る。知って向かえば命を取るという程にあらたかなというか、そういう恐い神様だと知っておった訳ですね。こん家の主人がこうやって難儀をしておるのは 豹尾金神様に無礼があってこんなことになっておるのだと云う、そのまあ神掛かりがあった。ときにその教祖の神様の奥様のお父様に当たられる方がすすみ出られてから申されました。神がかり、文次郎さんの側に行って、言われたんですね。他の者ならいざ知らず、今の家の主人に限って豹尾金神に無礼があるようなことはございませんと断言された。それはそうでしょうねえ。日頃信心は大変手厚い。自分の家を改築改造をなさってから広げられたときに、いわゆる家相を見てもらわれたときにこれは今の日にちが悪いのか、それでは家相がいけないから来月はいけるとか云われたのです。そこで言われた間だけはご自分で家移りをなさっておられる。そして自分の家は開けて、そして空き家としてその金神様に御無礼があっちゃならないと言うので、そういういわば行き届いたことをなさってから、家の改造をなさったのです。それを何時も奥様のお父さまは見ておられますものですから、あれ程せんでもよかろう、兎に角馬鹿んこと実意丁寧なと自分の娘に対してから、云うならばいわゆる尽くし方が余りにも過ぎると云う様な見方でおられたんですね。ですからその石槌の神様の神掛かりに対してです、よその者ならいざ知らずですけれども、ここの御主人に限って金神様に御無礼があるようなことはありませんと答えた。そしたらこの家の主人が亡くなってもよいかと云う厳しいお言葉であった。
 教祖の神様はもう物も通らない、湯水も通らない、ものも言うことが出来ない。時に思われた。何と神様に御無礼なことを言うお父様であろうかと思われた。そして床の中から這い這いしながら神様の前に出られて、只今氏子の申しましたこと平にお許し下さいませ。小さい家を四方に広げたことでございますから、何処にお粗末御無礼があったやら分かりません。凡夫のことで相分かりませず、何処にお粗末があったやら御無礼があったやら分かりません。これで済んだとは思いません。何とぞ、ただいま氏子の申しましたこと平に平にお許し下さいと云うてお詫びをなさった。
 そしたら治郎さんを通して神様が、この家の主人は行き届いておる。五月一日には現をやる。いわゆる証拠を見せると仰ったのですね。それから幾日後のちょうど五月の節句は菖蒲湯を沸かせて床上げが出来たと云われております。私共が信心させて頂いく者は、教祖の神様のそういう信心の態度こそが大事な訳です。
 もう見ることは見た。尽くすことは尽くした。手当だけはした。もうこれ以上のことは出来ん、と云うのでは無くて、生身を持っております凡人のことでございますから、何処にお粗末御無礼があるやら分かりません。どうぞそこんところは平に平にお許し下さいと云うような私はそういう心がけ、そういう姿勢がお道の信心には必要なのですよね。尽くしても尽くしても又尽くしても尽くしても尽くし足りぬが真なりけり、と云うような教歌がございます。どれだけ尽くしても尽くしてもほんとにこれ出済んだとは思いませんという尽くし足りないということがです、そういう心が真だと。私はこれだけのことをしておる、いやこれだけのことをして上げよう、もうとってもとってもこういうことだけではおかげにならんことが分かります。
 皆さん今日私が頂きました至れり尽くせりということは、ここで大坪総一郎、なかなか至れり尽くせりの信心が出来たと云うて下さるのではない。ひょっとするとこれは皆さんここの信者は行き届いておる。この頃も大祭の後にもう本当にあの総代さん方商売に出ました。熊本から熊本教会の総代さん方が見えておられました。ほんとにここの総代さん方は頭が下がります。ほんとに恐れ入りました。それはお世辞だろうけれども、そういう言葉をする時にほんのことじゃろうと思ったら大変です、ですから今朝から私は頂きます、よいとも悪いとも、至れり尽くせりではない。至れり尽くせりの出来ると仰っている訳でも無ければ、至れり尽くせりが足らんと仰った訳でもないですけれども、それからは私が感じますことです。
 私共がもう至ったりと云う時にはもうおしまいだと、もう下り坂だとよく申しますでしょう。一生一代のうちに立派な家を建てること、普請でも一応済ませる、それが最高だと、後はもう下り坂だと云うこと。それがその家の主人が俺も儲けだしたもんだと、こんな立派な家を建てて思うような思い上がりが頂点なのです。そういう意味合で私はこれが出来たからと云うて、これから先思いません。皆さん成程真心を持ってこのように造営が出来ましたのですけれども、何故ってこっちゃ、相済まぬと思うておりますから、まだまだこんなこちゃでけん。ここに例えば、千人も集まったらどうにも動かれん。そんなことではない。神様が下さるものは、こちらが身一つの為にこれだけしか頂けんだけのことであるだけである。まだまだこんなそこには、行き詰まりがない。これが出来たからやれやれ安心だというような事は安心でなくてもう慢心なんだ。どれだけ尽くしても尽くしても尽くし足りないのが真だ。
 今日はねえ、そこんところの至りませんところを、実意丁寧の限りを尽くして至らして頂こうと努力すること。もうこれでいいと云わずに本気で内外共に形の上に於て、自分の心の上に於いても思いの上に於いてもまだまだ思いが足りんのだと、まだ尽くし方が足りんのだと、そういう私は心掛けで今日一日の信心を頂きたいと思う。
名々の御用の上におきましてもそうなんである。つういっぱいのことをしたいと云うても、それはどこまでも生身の人間のことでございますから、これで済んだとは思わんと云う気持ちで事に望ませて貰い、そこから私は底知れぬ限りない力をというものが頂ける様に思う。
そういう心掛けの上に神様はおかげ下さるように思う。教祖の神様は神様からこの様に行き届いておるということはなら出来ておられたと云うことではなくて、小さい家を四方に広げたことでございますから、何処に金神様がおられるやら分からん。その当時は金神様は有効説と云ったようなものがね、みんなに信じられておった時代のことですから、何処にお粗末御無礼があったやら分かりません。凡夫の事でございますから、相分かりませず、どうぞ平にお許し下さいと言われたことによって、神様は行き届いておると仰っておる。 行き届いておると、神様が仰っておるのではなくて、私共が行き届いておるという思い方では出来んのです。何時か私共、いつもこれが済んだとは思いません、相済まんことでございますけれども、と云った様なものがです、主体の中になかないけない。
 今日は月次祭、十六日にあれだけのことはしたんだから、十六日にあれだけの大祭を奉仕したんだから、今日はおしょうぶんでよかろう。いや今日はお参りせんでよかろうといったような考えがあっては、だからさらさらあってはならないと云うことでございますね。 どうぞ。